- 1巻からちびちびと読み進めてきたけど、今までで一番司馬さんが楽しそうだった。モンゴル語を大学で学ぶほどだし、本当に憧れの地だったんだろうな。
- この時代、モンゴルにはソ連を経由しないと行けなかったらしく、いろんなトラブル続きでモンゴルに無事辿り着けるのかとハラハラした。まさか領事館の運転手さんがビザを出してくれるなんて。そんなウルトラCがありえたゆるやかな時代。
シベリアの先住民についても知らないことばかりで勉強になった。当たり前だけど、コサック以前からいろんな人々が住んでいたんだよなあ。歴史として残っていないだけで。大文明だけが人類のすべてではないということ。
歴史は古代に大文明を築いた民族のために頁を割きすぎているようだが、この寒冷地で太古以来の採集生活を守りつつ生きぬいてきたシベリアの少数民族もまた褒辞を受ける資格があるのではないか。(「ボストーク・ホテル」より)
モンゴルについてからは、とにかく美しい描写がたくさん。特にゴビ草原に咲き誇る「ゴビン・ハタン(ゴビの妻)」という名の花についての以下の一節がすてき。これを体験するためだけにでもゴビに行ってみたくなる。
靴の裏が、ゴビ草原にくっついたとき、おどろくべきことは、大地が淡い香水をふりまいたように薫っていることだった。風はなく、天が高く、天の一角にようやく茜がさしはじめた雲が浮かんでいる。その雲まで薫っているのではないかと思えるほどに、匂いが満ちていた。(「ゴビ草原」より)
加藤陽子他『別冊NHK100分de名著 フェミニズム』
- 4名の論客がフェミニズムに関する4つの名著を紹介するという構成。
- 加藤陽子氏が論じている、伊藤野枝が直面した労働者階級とのつながれなさは、今も続く課題であり、同じ階層同士でつながる「横の旅」ではなく、階層・イデオロギーを超えた「縦の旅」が必要との指摘。
- 女工に叱られて萎縮した野枝に対する、上間陽子氏の「そこからなんだけどな」という指摘に考えさせられた。ぶつかることのしんどさをどう乗り越えて連帯できるのか。衝突を過度に避けるこの時代に、「そこから」を紡いでいくことの難しさ。でも、その先にしか未来はないんだろうな。
- また、同じく上間氏によるハーマン『心的外傷と回復』の解説と、彼女が運営する若年女性の出産・子育てのためのシェルター「おにわ」での実践も興味深かった。大きな選択の前に、どんなカミソリが好きか、飲み物に氷を入れるのが好きかどうか、といった小さな選択をする経験を積み重ねていくことで、徐々に自分の人生の舵手であることを取り戻していけるとのこと。
- そうした感覚を持つことは、辛い経験をしたサバイバーはもちろん、女性全般についても同様に重要なのかも、と思った。伊藤野枝が言うところの「不覚な違算」(想定外の結果に直面して思い通りの結果にならないこと)に囲まれている女性だからこそ、自分の人生の主導権は自分が握るんだ、ということにより意識的になる必要がある、では、どうすればそうした意識が持てるのか、というのはまた別の問題だけれども。
三宅香帆『女の子の謎を解く』
- 少女漫画、映画、小説、アイドルと縦横無尽に渡り歩きながらの「ヒロイン像」に関する分析がとてもおもしろかった!平成の少女漫画におけるヒーローの弱さ、確かに。今思うとタキシード仮面って完全にお姫様ポジだったんだな…
個人的な関心としては、「ケアするヒロイン」の『推し、燃ゆ』に関する考察が興味深かった。主人公に対する他者からのケアが存在しない世界で、推しへのケアに没頭する主人公を描いている*1が、ラストの推しの引退後に、初めて主人公が「部屋を片付ける」という自分のケアを行う。このことから、著者は以下のように指摘している。
他者は不在なままでも、自分で自分をケアしようとするところで物語は終わる。それは「推し」という自分以外に目を向けてケアすべき対象がいなくなったからこそ可能になったのかもしれないし、もしかしたら大人になるということが、そもそも自分で自分をケアできるようになることなのかもしれない。
ちょうど同じタイミングで読んでいたカトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食は誰が作ったか』では、これまでの経済学が前提としてきた「経済人」は、ケアをすることを自身の役割から切り捨ててきた、と指摘されていた。著者が言うように、自分のケアをできるようになることが大人になるということなのであれば、現代社会で理想とされてきた「経済人」は、実は全くもって一人前の大人ではなく、それが様々なジェンダーを始めとする問題を引き起こしているのでは、と思ったりもした。
- あと、48グループの変遷と新自由主義の重なりの考察も興味深かった。競争から居場所探し、その両方の否定を経て、最終的に今が楽しければいい、へと至る。一方で、K-pop的なオーディションも全盛なわけで、これはどう解釈できるのかが気になった。NiziUの抱える矛盾。
*1:そもそも、「推し活」はケアと言えるのか、というところはやや気になった。あと、推し活とそれまでのアイドルファンの活動の違いみたいなところはあるんだろうか。
『マイ・エレメント』
https://www.disney.co.jp/movie/my-element
- 移民2世として、父母の苦労と自分への期待にどう向き合うのか、人種間のあつれきをどう乗り越えるのか、自分のメンタルをどうコントロールするか。見た目こそファンタジーだったけど、内容は現代社会の課題を真正面から描いていて、ディズニー&ピクサーすごい…となりました。
- 冒頭の、両親が初めてエレメントシティにやってくるシーンで、マイノリティとしての扱いを受けるところで、なんだかやたらと共感してしまった。移住経験も何もないけど。
- ただ、監督の背景からしても、劇中の描写からしても、火の属性は韓国系の文化を指していると思うんだけど、両親が移住せざるをえなくなった「嵐」が何か、ということを考えてしまった(もちろん、どんなふうにもとらえられるし、考えすぎかもしれないけど)。日本に生きる我々が、同じように欧米におけるマイノリティとしてこの物語を消費してよいのか、ということは、少し気にしておきたいなと思いました。
『バービー』
- 最初は女性だけ(男性もいるけどほぼ空気的扱い)のバービーランドバンザイ的な感じかと思いきや、バービーランドとリアルワールドの対比させることで、男社会への痛烈な皮肉とともに、女性だけの理想郷を作ればいいってもんではないよね、ということも示されていたのがよかった。女性だろうと男性だろうと、役割にとらわれずありのままで生きられる世の中にしたいものですね。
- 個人的には、グロリアとサーシャの母娘の物語にぐっときた。人形遊びから置いていかれるのは、おもちゃだけでなく親もなんだなあ。グロリアがバービーたちに家父長制における女性の抑圧を説くところで、サーシャが「ママ、かっこいいじゃん」みたいな表情をしてるのもよかった。親も一人の人間としていろいろ悩んで考えてるんだよ、という姿勢を見せていくことが大切なんだろうなあ。
- ラストの婦人科に行くところ、初見では、人間になったバービーが女性としての自分の身体を大切にするということなのかなと思ってたけど、他の人の考察を読んで、あれは(妊娠してるかどうかによらず)バービーが次世代に命を繋ぐという営みに前向きになったということを示してるんだなと思った。ルースが伝えたいと思ったことと重ね合わせても、そういうことなんだろう。
- 人形として完璧な生活を永遠に送るよりも、不条理だらけの人間の世界で生きることの意味とは、というとても深いテーマでした。
『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』
名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊|映画/ブルーレイ・デジタル配信|20世紀スタジオ公式
- テレビのCMだけを見て、ほとんど何の事前情報もなく行ったから、思ったよりホラー寄りでちょっとどきどきした。金田一少年の事件簿を思い出しました。ホラーとサスペンスは相性がいいんだなあ。
- ポアロが住んでた家のルーフバルコニーはとてもうらやましかったです。屋上でお茶したい。
- ベネチアの風景も美しかったな〜。しかし古いお屋敷は怖い…住みたくはない…
〈以下ネタバレあり〉
- まさに「母が重くて困ります」的な話だった。母と娘の物語が日本では近年の大きなテーマだけど、欧米でも主流になってきてるのかな。ケアの諸問題には、それを担うことのしんどさと同時に、ケアの権力性から抜け出せなくなる怖さもあるんだなと改めて感じた。
- 一方の父親的存在は、ドクター・フェリエが象徴するように、傷ついて壊れてしまって、むしろ子どもからケアされる対象になっているというのも印象的だった。まあ、その結果として皮肉にも被害者になってしまうのですが。こちらも、ある意味息子の父をケアしたいという思いが空回りしてしまった結果といえるのかもしれない。