水やりの記録

本や映画などの感想です。自分に水をあげましょう。

井上靖『額田女王』

 

 

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は榜ぎ出でな
茜さす 紫行き しめ野行き 野守は見ずや 君が袖振る

万葉集で、ひときわ印象的な歌を詠んだ歌人として知られる額田女王額田王とも)。「茜さす~」の歌は、中大兄皇子大海人皇子との三角関係という構図とともに、しばしば少女漫画などでも取り上げられるので、恋に生きた情熱的な女性、といった印象がなんとなくありました。

しかしながら本書は、額田女王が朝廷の権力者や時代の流れに翻弄されながらも、それに流されることなく、自立した生き方を求めた人間であったというスタンスで彼女の姿を描いています。

額田女王に関するエピソードは有名なので、蛇足ではありますが簡単にあらすじを。時は大化の改新後、宮廷に女官として仕える額田は、神事に奉仕することを任務としつつ、その恵まれた歌才から、天皇に代わって歌を詠むこともありました。彼女は当時の皇太子である中大兄皇子とその弟、大海人皇子の二人から熱烈なアプローチを受けるものの、それを受け入れてしまえば自分はただの女になり、神の声を聴くことができないと考える。しかしながら大きな権力を持つ二人の求めを断ることはできず、「体は与えても心は与えない」という強い決意のもと、彼らと対峙していきます。

と書くと、なんだかよくあるメロドラマのように聞こえるけれども、額田は、神に仕える巫女であることに強いプライドを持っています。神の声を聴けるからこそ、人々を魅了する歌を詠えるのです。そうした思いは大海人皇子との間に十市皇女が生まれても変わらず、母としての役割から距離をとり続ける。それは決して二人の皇子や十市皇女に対する愛情がないからではなく、女として、また母としての自覚をもってしまえば、多くの妃や皇子・皇女たちへの嫉妬や争いと無関係ではいられなくなってしまい、神の声を聴くことができなくなってしまうからです。

額田は女であることも、母であることも、己れに禁じているのであった。女であることを許せば、たちどころに女としての誇りは傷つけられ、嫉妬に身も心も焼かねばならなかった。母であることを許せば、わが子の将来を思って血眼になって政治の黒い流れの中に身を投じなければならなかった。

井上靖額田女王新潮文庫、p.134)

これを「神の声を聴く巫女」としての矜持とみると、額田の行動は極端なものにみえるけれど、現代の女性に置き換えると、女でもなく母でもない自分、というものを持ち続けるためにそうしたものと距離を置くという行動は、ある意味うらやましくもあります

結婚・出産に伴い、それまでに築いてきた役割を維持したいと思いつつも、妻・母としての役割に埋没していかざるをえない。そんな状況は、今も昔も実は変わらないのかもしれない。もちろん、乳母に任せられず自分で子育てしなければならないという現実において額田のような生き方は現実的には難しい。しかし、そうした精神を持っておくことは重要なのではないかという気がします。

あと、この小説はそうした恋愛部分を除いても、歴史小説として大変勉強になりました。井上靖が描きたかったのはそちらがメインなんじゃないか、と思うくらい。大化の改新後、中大兄皇子中臣鎌足がどのように改革を進めてきたか、その背後でどれだけの犠牲が払われたか、また当時の唐や朝鮮半島の争乱がいかに脅威であったか。そうした中で白村江の戦いがどのような意味を持っていたか。教科書上の知識が、当時を生きた人々の実感としてひりひりと感じられて、国家を作り上げるとはどういうことなのかがおぼろげながらわかったような気がしました。

少し物足りなさがあるとすれば、天智天皇の死後、なぜ壬申の乱が起きたのかという描写がやや薄いように感じたところ。もちろん、それまでに額田をめぐる二人の対立や、大友皇子の出世に伴う大海人皇子のとまどい、出家についても書かれているんだけど、出家後気づけば吉野で挙兵ということになっていて、その際に大海人皇子にどのような心境の変化があったのかについても知りたかったと思います。額田の視点から描かれる物語なので、近江と吉野で二人の物理的距離が開いてしまった以上、どうしようもないことでもあるのだけれど。