水やりの記録

本や映画などの感想です。自分に水をあげましょう。

チョン・アウン『主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら』

 

  • 二人目の子の誕生を機に会社勤めを辞めた著者が、専業主婦でいることに対して周囲から「家で遊んでいる」と言われたことへの違和感を、フェミニズムや経済に関するさまざまな本を通じて分析していくという趣旨の本。
  • マルクスは資本主義を資本家と労働者という2つからなると定義したけれども、それを支えるための無償のケアを提供する女性は見えない存在とされ、結果的に前近代に置き去りになっている、という指摘が興味深かった。
  • 資本主義を成り立たせるために無償労働を余儀なくされているのに、自分の意志で「働かない」という選択をしていることとされ、資本主義から降りているようにみなされてしまうことが、専業主婦という立場のつらさの根本にある。
  • 一方で、女性に労働者としての自立を促してきた過去の女性運動に対しても著者は否定的で、「地球上に残った最後の共同体である家族を捨ててしまったときに、いかなる共同体にも属せずひとりぽつんと残される子どもたちに対するヒューマニズムを捨てられないのだ(P.192)」としている。
  • そして、結論としては、女性が担っている家事労働(その実、家のことではなく個々人の生命維持活動の総体)に対する賃金が必要、としている。
  • 最終章において、西洋文化の根底にある個人主義を持ち込まずに近代化した韓国では、「個人の責任を家族が代わりに負うことになり、人々は家族を作らなければ何事もなしていないような気分で生きていくことになった(P.232)」としており、この状況を「家族別生存主義」と名付けている。これは日本でもまったく同様の状況ですね。
  • 既存の賃労働にのみ価値を見出すのではなく、再生産領域における労働への価値づけをしていくことで、男女ともにより生きやすくなっていくのだろうか。でも、たとえば在宅で育児や介護をしている人への手当てを国が出すことに対し、それは余計にケアを女性に押し付けることになるといった批判もなされるけど、そのあたりの議論ってどうなってるんだろう。この本が積読になってるけど、関連しそうなので次読んでみたいと思います。

     

上野誠『NHK 100分de名著 折口信夫 古代研究』

 

要旨

 折口信夫は「他界」と「まれびと」をキーワードに、人と神の関係に着目して日本の古代の世界を読み解いていった。まれびとは他界から訪問する神(でもあり人でもある)で、その神からのメッセージを後世に伝えるために国文学が発生し、まれびとである神をもてなすために「ほかひびと」と呼ばれる芸能を生業とする人々が生まれた。ほかひびとは聖なる存在であると同時に乞食としても扱われ、聖と線が表裏一体の存在であった。

 折口は自身の民俗学を構築するうえで柳田國男の影響を強く受けたが、柳田が実証を重視し、生者と死者を明確にわけた祖霊論を展開したのに対し、折口は感覚を重視し、日本の多種多様な神を統一的に解釈するためのまれびと論を説いたという点で違いがみられる。

 折口にとって、日本の古典を研究することは、古いかたちの日本人の思考を学び、今の自分の心の中にあるものを明らかにするという意味をもっていた。

感想

  • 神からの言葉を伝えるために国文学が発生したという点は興味深いと感じたが、ほかの文化でも神話から文学が発生するということは共通してありそうな気がするので(イリアスとかギルガメッシュとか?)、どこまで日本文学の独自性といえるのかという点は気になった。神話ということではなく、神からの言葉と考えたとしても、やはり聖書やコーランなどいずれも神の言葉を伝えるものであり、どの文化でも言葉を洗練させていく動機は神という人間の範囲を超えた存在の物語や言葉を伝えるため、ということなのかも。
  • 柳田が実証主義であるのに対し、折口は感覚重視とのこと。学問としてどうなのか、という点はあるが、祖霊・まれびとのどちらが先かという議論に関しては、そもそも霊魂というものは死者・生者などの二元論できっちりわけられるものではないという折口の主張に分があるように感じた。祖霊論は男子直系相続を基本とする家父長制的な思想のもとにあるものなので、そうした家父長制が崩れた現代においては、「ご先祖様」といっても、折口のいう「まれびと」的な感覚でとらえるほうがしっくりくる。家父長制的伝統が失われてもなお、まれびと的な価値観は日本文化の中に生き残っているということか。 

額賀美紗子,藤田結子『働く母親と階層化』

 

要旨

 子育てしながら働く母親が仕事・子育て・家事にどのような意味づけや対処をしているのかという点について、ヒアリング調査をもとに、雇用形態や階層差に着目して分析したもの。

 働きながら子育てする女性たちは、あからさまな母性イデオロギーに抗い、仕事と母親業を「織り合わせる」戦略をさまざまな形で実践しているが、その際にとりうる方略の選択肢は大卒女性に対して非大卒女性で圧倒的に不足している。

 非大卒女性の場合、生計維持分担意識が高く、キャリア志向であっても、夫のサポートが少ない。また、職場環境も大卒女性に比べると厳しい状況におかれており、大卒女性がとる「子ども優先・仕事セーブ」の戦略がとりづらい。家事や家庭教育についても、非大卒女性の負担の重さと選択肢の少なさは顕著である。

 こうした状況をふまえると、子どものケア責任を女性にのみ押し付けない「共育て・共育ち」社会の推進、就学前機関へのアクセスと質保証、採用における差別排除や同一労働・同一賃金、非正規雇用から正規雇用への転換等の雇用政策と職場環境の改善、個人レベルでのジェンダー平等教育、栄養のある食事の提供・食事の社会化等の政策が必要である。

感想

  • 母親規範を相対化し、自分の意識を仕事や自己啓発に傾けている女性は少数派であり、多くの女性は母性イデオロギーの強い影響下で就業意欲を挫かれているとのこと。確かに、母親が自分のことに時間を使う(それが仕事であったとしても)ことへの罪悪感の強さは常々感じるところ。一方で、どういった人たちが規範の相対化に成功しているのかが気になった。一昔前のバリキャリ女性像が否定されるなかで、より相対化は難しくなってしまっているのでは。

  • 一般に男性の家事育児時間が少ないのは長時間労働が理由とされるが、帰宅時間が早くても家事育児を分担しないケースもみられ、この背景には、夫が思惑通りに妻にケア労働を任せたいという「支配の志向」があるのではないかという指摘。どれだけ男性の労働時間が減ったとしても、そもそものジェンダー平等に関する価値観がなければ、女性がケア役割を担う傾向は変わらないということか。

  • 先行研究では、日本の既婚女性は「家計補助のため」に外で働くと解釈されてきたが、本調査では、とくに大卒女性と専門卒女性に生計維持分担意識が高く、キャリアとして自分の職業をとらえる傾向がみられたとのこと。専門学校って、短大とあわせて残余カテゴリとして扱われがちだけど、女性にとっては大きな意味があるのではという示唆。おそらく国家資格と直結しているからとのことで、逆に、大卒女性と専門卒女性の違いはどんなところにあるのか気になった。

  • 食事づくりの負担について、非正規・専業主婦の女性の場合、手作り規範を相対化しにくい傾向や、ひとり親世帯の場合経済的に外部化が難しかったり、分担してくれる者がいないという課題があるため、食育運動で手作りに関する情報を与えるよりも、広く安価で栄養価の高い食事を提供する具体的な施策や機会、食事の外部化・社会化が必要であるとの主張。これには激しく同意。子ども食堂だって、「おうちで食べられないからしかたなく」みたいな側面が強い。そもそも、夜の食事を外ですることが当たり前になったっていいじゃないか。食育的なものへのアンチ、積極的に唱えていきたい。

荒木博行『自分の頭で考える読書』

  • 「本とどう付き合っていくか」をテーマに、本の選び方や本を通じた問いの育て方、読書にまつわる様々な悩みについて書かれた本です。
  • 面白かったのは、本の種類を「新たな/既知の問い」×「新たな/既知の答え」の2軸から、①問いの発見(新問×新答)、②答えの発見(既問×新答)、③既知のリマインド(既問×既答)に分類していた点です。自分の日ごろの選書傾向を振り返ると、ついつい②③が多くなってしまっているので、①にもチャレンジしていかねば、と思いました。
  • 本をすべて読み切ることよりも、その本がどのような「問いと答え」を持っているのかをおおよそ把握し、自身の頭の中の「共有図書館」に整理しておくことが重要という点も納得でした。
  • 本の知識をつなげて活用するイメージとしてスノードームにたとえられていたのもわかりやすかったです。その前提として「刻み込む」「冷凍保存」「つなげる」の3ステップが示されているのですが、個人的にはこの「刻み込む」に時間をとるのがなかなか難しいと感じます(そのためにこうしてブログに感想を書いているのですが、正直なかなか時間がとれず・・・)。ですが、やはり何かしらのかたちで読んだ本の内容をアウトプットしておくことは重要ですね。
  • また、本に「読まれる」のではなく「読む」読書をするために、「熱狂」と「懐疑」のバランスが重要とも述べられています。すべてに納得するのではなく、モヤっとした部分にこそ自我があり、その問いを持ち続けていくことが、まさに「自分の頭で考える読書」につながるという説明は、そのとおりだなと。
  • ただ、その懐疑のあり方は実は難しくて、論理的なものなのか、なんとなくの拒否反応(Twitterでよくみられる逆張り的なもの)なのか、そこをきちんと見極めないと明後日の方向へも行ってしまいかねないなとも感じました。
  • ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉は本書で初めて知りました。答えの出ない事態に耐える力、とのことで、すぐにわかりやすさを求めてしまうこの時代だからこそ非常に重要な概念だと感じます。
  • 巻末の参考文献もとても興味深かったです。読みたい本のリストが増えました。とりいそぎ、小林秀雄『読書について』と、帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』を読んでみたいです。ショーペンハウアーも遠い昔に読んだことがあるのですが、改めて再読したい。

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  • ちなみに、ショーペンハウアーの『読書について』から以下の文章が引用されていたのですが、あまりに現代のTwitterにあてはまりすぎていて苦笑しました。もし彼が現代に生きていたら卒倒するのでは…

自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。これを実践すると、生まれながら凡庸で単純な多くの人間は、博識が仇となってますます精神のひらめきを失い、またあれこれ書き散らすと、ことごとく失敗するはめになる。

宮坂靖子編著『ケアと家族愛を問う―日本・中国・デンマークの国際比較』

 

  • 日本における家事・育児といったケアと家族愛の結びつき=愛情規範の存在が性別役割分業を存続させる要因ではないのかという仮説のもと、こうした愛情規範についての国際比較を行い、「ケアと親密な関係性はどのようにしたら両立可能か」を検討しています。
  • 調査対象は日本・中国・デンマークの3か国。インタビュー調査(母親、デンマークのみ父親も)と質問紙調査(大学生、母親)を実施。
  • 第1章での日本・中国・デンマークの若者のケア意識の比較で、中国の若者の結婚・出産意欲が低い一方、親に対する自身の介護役割の認識が高いことが印象的でした。まさに強すぎる家族主義が少子化を招く、という状況。
  • 第2章ではデンマークカップルの共働き実践の様子が描かれていました。両立を巡って対立しながらもどちらか一方にケア役割を一任するという発想にならない理由として、相手をリスペクトする姿勢と、親が仕事や自身の楽しみから刺激を得ることで子どもにいい愛情を注げるという考え方があるとのこと。母親側のインタビューだったので、父親側の意見も聞いてみたいと感じました。
  • 第3章の中国都市部の育児の変遷は興味深かったです。1950~80年代に社会主義下で男女平等が進み、子どもは放任が基本だったものの、一人っ子政策と都市化により子ども中心主義が広まり、女性に「よい母」であることが求められるように。さらに2000年代になると精緻化育児が流行して育児コストが高騰する一方で、「スーパーママ」があこがれの存在になっていったとのこと。また、現代の母親たちは、自立を目指した教育を受けつつも、高騰する育児コストを受けて専業主婦化が進んでおり、2つの価値観の間で葛藤しているという指摘は、日本にも当てはまりそうだと思いました。
  • 第6章では、本書の主題でもある「妻は子どもが小さいうちに仕事をしないほうがいい」という専業母規範と「家事をするのは家族に愛情があるからだ」という家事=愛情規範を検討。デンマークでは家事とケアを分節化し、家事は生活のためにやるもの、愛情と結びつくのはケアとすることで脱近代家族を達成したのに対し、日本は家事を「母の手」ですることが愛情であるという規範が根強く、家事・育児負担が母親に偏るとともに、育児サポートが少ないことが育児満足度の低さに結びついているとの指摘がなされています。
  • ただ、この「母の手」規範については、もちろんそうした面もあるでしょうが、一方で「家事労働は無償のもの」(だから外部の資源を使うのはもったいない)という意識も根強いように思います。中国でも家事=愛情規範は強いという結果でしたが、それでも育児のうち身体的ケアを外部に委ねることには積極的とのことで、このあたり愛情だけでなく何をコストとみなすかという点での差が生まれているようにも思いました。
  • 日本においても家族主義を脱するためにはケアの分節化や専業母規範から抜け出すことが必要という主張は完全に同意ですが、こういった根強い意識を変えるにはどうすればよいか、という点はなかなか難しいですね。

「スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち」

greats2022.jp

 

 東京都美術館で、「スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち」を見てきました。

 スコットランド国立美術館のコレクション展示。ルネサンスバロック、グランド・ツアーの時代、19世紀の開拓者たちの4章構成。前半は国立新美術館の「メトロポリタン美術館展」と似た印象でしたが、後半にかけてイギリスの画家が増えていき、興味深かったです。

 印象に残ったのはミレイの《古来比類なき甘美な瞳》という作品。タイトルとは裏腹に、質素な服装で、なにかを悟ったようなどこかアンニュイな少女の肖像。「甘美な瞳」というタイトルとのギャップが気になりました。

 カタログによると、タイトルはエリザベス・バレット・ブラウニングの「カタリーナとカモンイス」という詩から引用したそう。その詩は死を前にしたカタリーナが恋人カモンイスへ、自分の瞳を「甘美な瞳」と称える彼の詩について書き送る場面とのことで、そうしたイメージが少女の質素ながらも凛とした美しさに重ね合わされているのかなと感じました。*1

 また、スコットランドということで、ジョン・マーティン《マクベス》もありました。魔女に出会う直前の場面だったけど、3人の魔女がまるでシヴァ神のようなポージングなのが面白かった。

 最後に展示されていたフレデリックエドウィン・チャーチの《アメリカ側から見たナイアガラの滝》は大迫力で、まるで滝のすぐそばにいるような臨場感がありました。右下の虹の透明感が美しかった。ナイアガラの滝、見てみたいなあ。

 スコットランド国立美術館は、当初国からの援助がなく、資産家の大口寄附で成り立っていたそう。その条件が自分の犬の絵を展示して、犬の世話をすることというのもなんだかお金持ちエピソード感が強い。エディンバラ城のふもとにあるそうで、いつか行ってみたいです。*2

*1:ちなみに、カモンイスとはルネサンス期のポルトガルの詩人で、19世紀にイギリスで起こったポルトガル・ブームの際に彼と彼の恋人カタリーナの悲恋を描いた伝記が大人気になったとのことです(高橋美帆,2011,「ヴィクトリア朝文学における〈修道女〉のテーマ―女性詩人の「連歌」をめぐる一考察― 」天理大学学報 62 (2), 1-31.)

*2:ところでこうした美術館の感想を書くとき、みなさん画像ってどうやって引用しているんでしょうか…

西研『ニーチェ:ツァラトゥストラ(NHK 100分de名著ブックス)』

 

 

  • NHKオンデマンドで「100分de名著」のニーチェの回を見て、おもしろかったのでテキストも読んでみました。聞いたことはあるけれども意味はよくわかっていなかったニーチェの思想について、おぼろげながらエッセンスを理解できた気がします。神という絶対的な価値を失い、それでも辛い世の中を生きていくためには、柱となりうる思想だと感じました。
  • 有名な「永遠回帰」について、人生のどんな苦しみもそのまま巡ってくることを受け入れなければならないと考えると、なんて厳しい思想なんだと感じるけれども、「たった一度でも魂がふるえるほどの悦びがあるならば、その人生は生きるに値する」ということに重点をおいて理解をするならば、逆に究極のポジティブ思考であるようにも思います。
  • ただ、そうした悦びが見いだせないほどの絶望にある人にとっては、孤独の中でその悦びを思い出せといわれても、さらに絶望を深めてしまうように思われます。西氏の提唱するように、人とのかかわりの中で自分の悦びが何かを見出し、前に進んでいくということが重要なのだと思います。
  • また、この思想が行き過ぎると、社会を批判すること=ルサンチマンを克服できていないこと、とみなされ、社会構造に対する批判が成り立たなくなってしまう危険も感じました。ニーチェルサンチマンを受け止められないときはそれを認めて呪って叫ぶほうがよい、としているそうですが、ルサンチマンの種類によっては個人的な克服を目指すのではなく、その社会構造自体の変革を志向すべきではないでしょうか。それがヘーゲルのいう社会的な問い、ということになるのかもしれません。第1章でも述べられているように、ニーチェ的実存派とヘーゲル的社会派は対立するものではなく、連続的なものととらえることが必要ということなのでしょう。